Web特集
2006年08月10日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(2)
日本ペイント 片岡孝夫
第1話では、創業者が一度話をした人のことは、いつまでも忘れることがなかったという話をしました。確かに頭は良かったようです。 重次郎が生まれ育った大和郡山藩(15万石・現在の奈良県大和郡山市)の藩主・柳沢保申は英語教育に熱心でした。明治4年の廃藩置県により初代奈良県知事に就任した後も、旧藩士の子弟で成績優秀な者に育英資金を給付して東京に留学させていました。茂木兄弟はともに選抜され、政治家としての出世を夢見て上京します。父親の道一(どういち)は禄高150石の藩士で、身長180cmを超える大柄な人でしたが、「御馬御用掛文学武芸並武具御用掛」と呼ばれる役でした。藩主の乗馬や学問、武芸のための道具類の保管責任者であり、藩主や多くの弟子たちに和歌を教える歌人でもありました。
明治6年、重次郎は14歳のときに上京。浅草にあった誓願寺変則英学塾に1年間通学、満15歳で三田の慶応義塾に転校し、福沢諭吉の訓導を受けました。上司に媚びへつらって立身出世をなそうとする処世術を最も嫌う先生に感銘を受け、大いに迷ったあげく、「旧来の鎖国を廃して世界を相手にするにはまず国富を増進せねば」と考えを変えました。
そして自分は士族として育ってきたので、今さら商売人にも百姓にもなれそうにない。今日本が遅れている工業方面で近代化を図ることが重要だ、「自分が立ち上がらねば......」という気概を持ちます。先に上京していた10歳年上の春太に相談し、慶応義塾を2年で去ります。 明治9年に春太がドイツ人ワグネル教授の助手として、東京開成学校で外国の化学教科書の翻訳をしていたこともあり、重次郎は製作学教場の生徒として、数学・物理学・無機化学を学びました。
しかし、充分な生徒を集められなかった同校は8カ月後に廃止され、共に開成学校を去ることになりました。兄は東京女子師範学校の英語教授に就任、弟は在学中から興味のあった塗料・顔料の研究を続けます。(つづく)
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