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Web特集

2006年11月07日

シリーズ: 先人に学ぶ

先人に学ぶ(3)

日本ペイント 片岡孝夫

創業者茂木重次郎と兄春太 第3話

春太が東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の教鞭をとっていた明治11年の春、同僚であった宮川保全(明治19年に共立女子学園を創立)から相談を受けた。 「芝(港区)で薬屋をしている親類の山崎塊一から、『役者が常用している白粉(おしろい)で体をこわすものが大勢いるが、西洋には鉛を使わない無毒の白粉があるという。わが国にこのようなものがあればいいのだが、できないだろうか』と聞かれた。何か妙案はないか」というものであった。

春太はそれが白鉛の代わりに亜鉛華を用いたものであり、亜鉛華の製造法はワグネル教授の助手時代に聞いたことがあった。さっそく、春太・宮川・山崎の3人で資金を出し合って「白粉用亜鉛華製造組合」を創設し、その開発を弟重次郎にやらせることにした。当初は金属亜鉛を硫酸などの液体で酸化させて作る沈殿法を試みたが、不純物が多くて使い物にならなかった。そこで高熱を加えて蒸発させる乾留法に切り替えたが、窯などの製造設備に多額の資金を要したため、組合運営は続かなかった。

大和屋重次郎商店開業


兄弟は意を決し、2人で亜鉛華製造にチャレンジすることにした。
同郷の藩士であり、開成学校で重次郎に化学と物理学を教えた熊沢善庵は、「藩の高級職員の子弟が製薬技術者として成功できるわけがない」と反対したが、東京女子師範学校の神田川を挟んだ対岸、神田猿楽町にあった元醤油工場を買い取り、兄弟はそこに転居して、表通りの66m2を絵具類の販売店舗に、店裏の80m2の納屋を作業場にして亜鉛華製造の研究を本格的に始めた。


窯の形をどうするか、高温度に耐える窯はどうして作るか、陶業に秀でたワグネル教授の講義にあった耐火粘土はどこに行けば手に入るのかなど、手探りの状態でのスタートであった。
既に工部省が作っていた耐火煉瓦は高価すぎて手も足も出ない。鋳造家や鍛冶屋に聞いてまわり、ようやく「へな土」「伊豆天城山の白土」「荒木田」などの土が高温に耐えることを知り、天城山の白土や耐火粘土を購入した。しかし、土は入手できても配合は自分で探し出すしかない。窯だけでも何十回もやり直し、同年暮れに、ようやく木炭を燃料とした亜鉛華の製造に成功した。

20061018-4-1.jpg土を捏ねる重次郎

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