Web特集
2006年12月26日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(4)
日本ペイント 片岡孝夫
兄春太は東京女子師範学校の教授として月40-50円の俸給を受けていた。それだけの月収があれば相当に楽な生活ができるだが、相変わらず月7円の質素な生活を続け、残り全部を亜鉛華の研究開発費に投じた。旺盛な探究心と、一途に実験を繰り返す兄弟の努力の甲斐あって、ようやく木炭を燃料に亜鉛華製造に成功した。
そこで、本格的な事業化にむけて兄弟して大和郡山の両親に千五百円の資金援助を頼み、支援してもらった。しかし、その大部分が試作代に消え、運悪く残りの500円を預けていた銀行が倒産して回収できなくなり、生活苦はいよいよ極限に達した。そんな中で、春太の指導のもと、重次郎は兄嫁と同郷の職工との3人で、一心に試作改良を繰り返し、少しずつだが亜鉛華ができるようになった。しかし火傷やしもやけなどの治療薬としての需要があるだけで微量しか売れないし、木炭燃料では製造コストが高く、店に出しても相変わらず苦しい生活が続いた。
しかし年末には店頭に提灯を吊るし、門松を立ててカラ景気をつけて平静さを保ちながらも、支払いをしてくれない薬種店もあって、資金が底をつき、職工の給料もままならない窮地に陥ってしまう。やむなく自分の着物をはじめ、同情してくれる知り合いの着物までも借りて質屋に通う生活が続いた。
質素な生活に家族耐え抜いて
京都の良家から若くして兄春太に嫁いできた玉子夫人は、普通ならセレブな生活にあこがれるところだが、このような困窮生活にも愚痴ひとつ言わず、身を粉にして事業を手伝ったのである。なんとか年を越せたものの、春を過ぎ夏近くになっても紺絣の単衣一枚しかない。肩のところが破れて外には着て出られないので、綿入の羽織を重ねるが、世間体もあるので夜中にしか買い物に行けなかった。また安いものを少ししか買わないので近所では買いにくく、神田の明神下まで出かけたという。昼間は男のようにぼろぼろの筒袖を着、頬冠りして土をこねる毎日であった。
気楽に暮らそうと思えばできる境遇にありながらそれを求めず、貧困生活に耐えぬけたのは、夫やその弟の熱意を感じていたからであろう。(つづく)
門松を背に質屋に通う夫人