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Web特集

2007年02月28日

シリーズ: 先人に学ぶ

先人に学ぶ(5)

日本ペイント 片岡孝夫

創業者茂木重次郎と兄春太 第5話

予期せぬ用途でピンチ脱出


木炭を使っての亜鉛華製造は原価が高く、得意先も薬種商・化粧品店に限られており、たまに目薬用硫酸亜鉛の原料として売れるものの、経営は非常に苦しいものであった。
時同じく明治のはじめ、国内では偽札が横行し、経済の混乱を招いていた。大蔵省は印刷技術の向上に努めるものの、機械・材料類をほとんど海外から輸入しなければならない状況であった。さしずめ問題になったのが印肉である。偽札は押印部分に蒸気を当てて擦ると滲むことがわかったが、これに代わる市販印肉に適当なものがなく、自家製造が必至の課題であった。印肉を練るのに必要な亜鉛華を製造しようと試みるものの成功せず、神田猿楽町の大和屋重次郎商店が亜鉛華の製造に成功したことを聞きつけ、ある日、重次郎の留守中に、大蔵省の役人が知人の夫人と一緒に見学に訪れ、案内していた兄嫁から詳しく製法を聞き出したのである(産業スパイである)。ところが、役人は肝心のる堝[つぼ](漁業用の陶製の壷)のことを忘れていたために完成できず、再び見学を願い出てきたが、気付いた重次郎がこれを拒否して難を逃れた。仕方なく印刷局は亜鉛華の製造を断念し、店から買うようになった。


20070214-4-2.jpg機密を探る大蔵省の役人

予期せぬ用途が拓け、何十貫という大きな注文が舞い込んで、経営上の大ピンチをやっと乗り越えることができた。これで木炭から石炭への設備改造に投資でき、コスト低減にも結びついた。明治12年、初代首相の伊藤博文が内務卿時代で、亜鉛華の「製薬免許之証」を下付された年でもあった。


一息つく間もなく、重次郎はここで悲願であった洋式塗料の開発製造に本格的に着手した。種々の絵具(顔料)を購入し、発色や乾燥試験を繰り返した後、明治13年になってようやくペンキの国産化に成功し、早速5月27日発行の東京日日新聞(今の毎日新聞)に、「亜鉛華」と「諸色油願色[ペンキ]」の広告を誇らしげに出したのである。


20070214-4-3.jpg

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