Web特集
2007年05月16日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(6)
日本ペイント 片岡孝夫
事業発展のきざしが見える
国産第1号のペンキを完成させた翌年、明治14年3月1日から6月30日の4ヵ月間、東京上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会に8色のペンキと2色の亜鉛華を展示したところ、それが審査員の目にとまり、外国産に劣らないとして褒状をいただいた。この成功により重次郎がペンキを製造していることが世間に知れ、少量ずつではあるが注文が入るようになり、事業として少しは安定してきた。しかし、まだ満足できる商品ではなかった。
一方、この博覧会の開会間もなく、塗料油を製造する田川謙三という人から、「当社の塗料油で薄めると色が黒くなると海軍からクレームが入り困っている。共同で塗料の研究をしたい」と申し込んできた。どのように進めるかと相談中に生涯忘れ得ぬ出来事が起こる。
兄春太の急逝
明治14年5月21日、塗料製造の事業化を夢見、物心ともに頼りとしてきた兄春太が急逝したのである。死因は「脊髄カリエス」。脊髄が結核菌に冒され、疼くような痛みが続き、骨破壊が進行して死に至る恐ろしい病であった。家族にも隠して痛みに耐えていたのである。治療費も惜しんで倹約を続け、教師・化学文献の翻訳家として得た収入の大半を塗料の研究に注ぎ続けた挙句の死であり、残された重次郎がまだ若干23歳のときである。悲嘆にくれている間もなく、重次郎はすぐ気を取り直し、「亡き兄と共に初志を貫徹するぞ」という強い意志をもって製法の改良へと邁進した。
春太夫妻には子供がいなかったが、「日本の女子教育と化学工業黎明期における彼の功績は永代伝えられるべきである」と、政府の第1号留学生として欧州で化学を学んだ。兄弟を化学の道に導いた同郷の先輩である熊沢善庵の提案により、大和郡山藩の最後の藩主柳澤保申や「西国立志論」の著者であり東京女子師範学校の初代校長中村正正直の他多くの人が協賛し、明治19年東京谷中にある明治時代の大実業家・渋沢栄一の墓地の隣に石碑「茂木君之碑」が建立され、親族によって今も維持管理されている。
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