Web特集
2007年07月19日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(7)
日本ペイント 片岡孝夫
わが国初の塗料会社 光明社の誕生
志のなかば、33歳の若さで急逝した兄春太の無念さを胸に、重次郎はペイント及び亜鉛華の製法改良に向け、さらに奮い立った。
一方海軍は艦船のメンテナンスに塗料が欠かせない。戦争で輸入が途絶えると、たちまち老朽化が進行し、大幅な戦力低下につながる。塗料工業の育成は国家的にも重要な課題であるとの危機感を抱いていた。
当時海軍全体の塗具と塗装の管理をしていた中川平吉は、上野の第2回内国勧業博覧会に出品した重次郎のペンキが褒章を取得したことを知る。この技術を核にした塗料の事業化の支援を海軍卿(海軍大将に次ぐ)川村純義に建議し、許可を得た。
塗料製造の重次郎と油製造の田川謙三、さび止め顔料製造の橘清太郎の3人による共同組合とし、自らも技術顧問として性能評価にあたった。資金的には当時の財閥のひとつであった島田組の社員・菊池永が担当した。明治14年10月頃、東京都芝区三田四国町1番地(今の港区芝3丁目2番地の1)に302坪の土地を取得し、共同組合光明社を創立したのである。入り口には、中川平吉が自ら塗装した塗り見本11枚をはめ込んだ衝立を立て、裏面には艦船営需用塗具見本一覧として、木目調・大理石調・蝋石調など30枚の仕上げ見本を貼り付けた。(日本ペイント歴史館に展示中)
海軍専属の塗料工場の趣を呈していたものの、その後順次納入量が増え、明治16年頃には年間2万円を売り上げるまでに成長した。
工場全焼の悲運
経営がようやく安定してきたかに見えたとき、重次郎にまたもや悲運が襲った。明治17年6月5日午後11時20分に火災が起こったのだ。
「工場全部を焼失し、在庫のペンキも全部泥のようになった・・・。」落胆した重次郎のことばである。一瞬のすきに起こったできごとであった。ゼロからの再出発である。工場はふたたび菊池永より1万円の投資を受けて再建。以来6月6日は火災記念日とし、防火安全意識を高めることとした。
« 前のWeb特集 | Web特集アーカイブ | 次のWeb特集 »