Web特集
2007年09月20日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(8)
日本ペイント 片岡孝夫
海軍の事業支援がつづく
明治17年6月の全焼後、再出発した光明社は、その後も海軍艦船用塗具の専属工場として製品のほとんどを海軍省横須賀鎮守府に納めていた。海軍の事業支援があればこそだった。 当時、清国その他との外交関係に緊張感が走っていたために、海軍も艦船建造に力を入れ、また横須賀のみであった軍港は呉・佐世保にも開かれた。明治19年以後は、海軍公債の発行による財務が強化されて、軍艦の建造数が増加し、海軍向けは着実に増えた。だが洋式建物が普及しだして建築用塗料の需要も出てきたものの、まだまだ外国品崇拝が根強く、その他の用途向けは遅々として進まなかった。
皇居造営に際して高級塗料を献納
当時建造が進められていた皇居は、和洋折衷のために大量の洋式塗料が使われたが、明治19年7月、外国からの輸入が間に合わないで困っているのを知った重次郎は調合ペイント上等白・並白・下等白合計81缶、約300坪(990m2)分を献納した。 同年12月末になり宮内省から「皇居造営ニ付上等白塗具塗リ高三百坪分献納候段神妙之至候依テ為其賞銀盃壱個下賜候事」として銀盃が下賜された。予期せぬ返礼に茂木重次郎はじめ、努力を重ねてきた従業員6名は感激に咽んだのである。
好事魔多し
しかし、光明社の技術顧問として事業経営の支えであった海軍塗工長中川平吉氏が同年に死亡した。その後24年には出資者であった菊池永も死亡し、同氏の遺族から出資金の返還を求められ、有り金のうち2千5百円を返金するという事態になり、再び資金手当てに苦労した。また、共同組合の一員として協力し合ってきた田川謙三が組合を離脱することになり、負債が増すばかりでその内容は窮々たるものであった。
この窮状のどん底にありながらも重次郎は決して落胆することなく、却って奮起し、「金も要らぬ、名誉も要らぬ。ただ世のために尽したい」という信念のみを支えに、平然として微笑みは絶やさなかった。やがて光明社に転機が訪れる。
宮内庁感謝状