Web特集
2007年11月13日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(9)
日本ペイント 片岡孝夫
組織を改編し体力強化
窮地に陥った光明社は、重次郎をはじめ社員の給料を4分の1に減らし、全員で耐え忍んだ。塗料の将来性に期待はできるものの、資金繰りが難しく、生産能力増強の大きな障壁となった。しかし明治26年の法改正で任意組合だった光明社を解散し、合資会社光明社として以来、出資者が増え、徐々に体力がついてきた。
明治27年、重次郎は東京開成学校の先輩で創業前からの支援者であった農商務省分析技師の田村典瑞に将来の在り方について相談した。すると「確固たる将来の見込みがあるなら大いなる発展策を講じよう」と全面協力を約束された。重次郎は早速、年間売上を4倍の10万円にする計画書を作って提案したところ田村は即座に賛同し、友人知人に声をかけ、自らが本気であることを示すため、住家と土地を売り払い、約3,000円を工面して出資した。これに感激した親戚の山田毅は、海員掖済会海員相互扶助貯金の有利な運用先として2万円を出資した。すると「山田が投資するくらいなら安全有利な企業であろう」と、出資者が次々と現れてきたのである。重次郎の親戚も2,000‐3,000円出資したがまだまだ資金不足であった。縁あって回漕業で財をなした事業家、田坂初太郎にも声がかかった。船員から身を起こした田坂はペンキに詳しく、その将来性を見込んで売上目標34万円という壮大な事業計画を立てていた。明治27年8月には日清戦争が始まり、塗料の注文が急増していたのである。
合資会社から株式会社へ
塗料需要の急増を背景に、生産規模拡大が急務となって、明治29年3月資本金を12万円に増資、7月には社名を光明合資会社と改称して一切の資産を新会社に引き継いだ。更に海軍鎮守府が西日本に拡充され、民間造船所も西に増えたため、大阪にも東洋一の工場が必要となり、株式会社組織に改めて出資を募った結果、明治31年3月に資本金40万円の日本ペイント製造株式会社としてスタートできたのである。大株主の田坂初太郎が社長として経営の柱となり、重次郎は取締役技師長として、技術開発に専念することになった。
挿絵:山田毅に夢を語る