Web特集
2008年01月31日
シリーズ: 先人に学ぶ
先人に学ぶ(10)
日本ペイント 片岡孝夫
塗料研究開発に没頭の日々
取締役技師長に就任した重次郎は、「仕事をするのは酒を飲んだり芝居を観るのと同じくらい楽しい」と研究開発に没頭し、人が金儲けをしようが出世をしようが、全く気にとめることはなかった。明治維新後、県の特待生として上京し、福沢諭吉の薫陶を受け、「今は国富を増進する事業に携わるべき時、終生社会に役立つ事業に尽くすのだ」と決意して開いた洋式塗料製造事業。「亡兄春太、家土地を売り払って事業を支えてくれた老父道一らの恩に報いるためにも世界に覇たる塗料を作らねば」の思いは終生揺るがなかった。
こんなエピソードが伝わる。重次郎は道を歩いていて雨が降り出しても駈け出さない。「駈けても濡れるときは濡れるのだ」と悠然と歩く。歩き方もドッシリドッシリと考えながら歩くので、田坂初代社長は「『蟻殺し』の歩き方」と評していたという。決して頑固ではなく、理にかなった主張は貫くが、職工たちにも耳を傾けた。真っ黒な顔に無精ひげを伸ばした作業服姿に、まわりは温かささえ覚えたようだ。
緑綬褒章に涙
エナメルの代用として一世風靡した「モテキ塗料」発明の翌年、社業を通じ公共の福祉に偉大な貢献をしたと、明治44年1月に緑綬褒章を受章した。今から97年前、重次郎53歳の時である。褒章の記を要約し、重次郎の功績を振り返ってみる。
「実業に志し、明治11年亜鉛華の製造を企て、刻苦研鑚してペンキを製作して声誉を博す。光明社を興し、奮ってその規模を拡張、年産250万円にのぼる。殊に亜鉛華の精製、鉛丹の発明は世に歓迎され、外国品を凌駕、その販路を海外に広めた。ペイント濾過器を発明など、実業に精励し衆民の模範たる者とす。よって緑綬褒章を賜い、表彰せらる」。
兄嫁であった玉子未亡人を妻に迎え、共に苦労を重ねてきた重次郎。この日は万感胸にせまり、夫人とともに、感涙にむせんだそうである。
その後は、大正10年戦後不況時に勇退し、昭和7年3月3日、品川の自宅で74年の生涯を閉じた。
(挿絵=緑綬褒章授章時の重次郎)
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