本紙記者がテレワーク体制を敷いてからほぼ1年が経とうとしている。昔から「ペンと電話があればライター稼業はできる」と言われたものだが、今はノートパソコンとスマホといったところか。取材の対面、オンラインの違いはあっても、仕事にはほぼ支障がないように見える。おそらくコロナが終息しても記者のテレワークは継続すると考えている。

もちろんそれには、端末の軽量化と普及が進んだネット環境の恩恵に預かっている面が大きい。1キロを超えるノートパソコンをカバンに入れ、肩がちぎれそうな思いをした過去と比べれば、革命的に技術が進歩した。贅沢を言えば、もう少しバッテリーを含めた端末の軽量化と電池の長寿命化を期待したいが、実務面ではまったく問題がないレベルに来ている。

こうなると効率的にも機能的にも会社に出社してから取材先に行く意味が希薄化してしまう。もちろん社員が直接顔を合わせ、会話を交わすことに価値はあるのだが、"記者は外が仕事場"という職業観もテレワークを後押しした側面がある。
また編集、経理の内勤部門においても通勤混雑を避けるため時短業務を続けている。ただ、やるべき仕事量は変わらないため、かえって仕事のスピードを上げる意識が強くなったという。編集、経理ともにコロナ終息後も時短勤務を希望している。

新型コロナがテレワークや時短勤務を導入するきっかけになったことは確かだが、コロナが終息すれば元の体制に戻すかというと、それは難しいような気がしている。こうした体制が1年近く続いたこと、会社が都心にあるからかもしれないが、郊外の自宅から毎日ギュウギュウ詰めの電車に乗る生活に戻りたくないと思っていることに気づかされる。

「生きることとはそういうものだ!」と叱られそうだが、学生時代から数えて30年近く通勤電車に乗っているが、一度たりとも通勤ラッシュを"仕方のないこと"と思ったことがない。誰かが通勤ラッシュを解消するシステムを発明してくれることを願いながら、都会暮らしの代償として受け止めていた。それでも人身事故の多さや気象災害のたびにパニックになる都心の交通機関は、既に許容量を超えているように感じる。

なんだかテレワークの話から通勤ラッシュの話に脱線してしまったが、「当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなった」は、過去への郷愁だけでなく、未来に対する希望も込められている。
テレワークが通勤ラッシュの回避策になるというのはあくまでも一例だが、テレワークを実施している企業がコロナ終息後にどうするかは興味深い。やってみて分かったことだが、会社のカルチャーを相当変える可能性があるからだ。

特に社員同士の接触機会が減るテレワークは、人材教育やコミュニケーションにおいて新たな課題を抱えることになる。
おそらく従来のやり方を遠隔システムに置き換えるような代物では通用しないはず。大企業を中心に、人材に仕事を明確に割り当てるJOB型システムや正社員を業務委託契約に移行する動きは、人材教育や社内コミュニケーションの観念、定義を変える試みのようにも映る。

テレワークを導入する、しないに正解不正解はないと思うが、テレワークを働き方改革の一施策として見るだけではリスクも潜む。

「当たり前のことが当たり前でなくなること」があぶりだされることに向き合えるか。そんなところにテレワークの本質があるように思う。