「ひめゆり平和祈念資料館」をボランティア塗装 塗装で体現"ゆいまーる"の精神

戦後80年の節目に当たる今年、印象に残る塗装ボランティアが行われた。沖縄県糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」の外壁塗装だ。戦争の悲惨な実相が伝わるからこそ、平和の尊さが胸に刻まれる資料館。沖縄特有の気候で傷んでいた同館の外壁を、塗装のボランティア団体「塗魂(とうこん)ペインターズ」が塗り上げた。相互扶助を意味する沖縄の方言「ゆいまーる」を体現したボランティア活動を取材した。

 


太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月、沖縄戦での負傷兵の看護要因として動員された「ひめゆり学徒隊」。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と、引率教師を合わせた240名が米軍との激戦地で負傷兵の看護にあたった。生徒はいずれも15歳から19歳の、まだ年端もいかない少女たちだ。

動員された沖縄陸軍病院は、ガマと呼ばれるいくつもの壕の中につくられた野戦病院。食料も衛生状態も劣悪な状況下での看護は、過酷を極めた。負傷兵の尿や便の片付け、水や食事の世話、包帯交換、壕の外で行う水くみや死体の埋葬は命がけの仕事だった。

戦局の悪化に伴って、南部・伊原地区一帯のガマに撤退していた沖縄陸軍病院は、医療器具や薬品も底をつき、既に病院の機能を失っていた。そして6月18日夜、学徒隊に突如「解散命令」が言い渡された。何の保護も後ろ盾もなく、鉄の雨が降りしきる地獄絵図の中に放り出された少女たち。ひめゆり学徒隊の死亡者136人のうち、117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になった。

少女たちが学んでいた両校の愛称にちなんで名づけられた「ひめゆり学徒隊」。沖縄戦の翌年の1946年に、最も多くの犠牲者を出した伊原第三外科壕(ガマ)の上に、慰霊碑「ひめゆりの塔」が建てられた。

コロナ禍で財政逼迫、塗装ができない

この慰霊碑に隣接して建っているのが、今回塗魂ペインターズが塗装ボランティアを行った「ひめゆり平和祈念資料館」だ。ひめゆりたちの戦争体験を通して、戦争の悲惨さと命の大切さを伝えるため、ひめゆり同窓生によって1989年に設立された。館内には、証言映像や当時の写真、壕の実物大模型などを展示。少女たちが体験した沖縄戦の実相を通して、平和の尊さを伝えている。

驚くのは、この資料館が民営の施設だということだ。同窓生や後輩や支援者を中心とした「ひめゆり平和祈念財団」が運営。国や県などからの財政支援を受けず、訪れる人の入館料で成り立っているという。来館者の胸に迫る展示が詰まった同館には、毎年50万人もの人々が全国から訪れている。

その、ひめゆり平和祈念資料館をピンチが襲った。コロナ禍だ。「それまで年間50万人を数えていた来館者の数が1割ほどに激減。そうした状況が3年近く続き、入館料で成り立っている当館は存続の危機に立たされました」と同館の普天間朝佳(ふてんま・ちょうけい)館長。

この間、寄付の呼びかけや有料のオンライン講話、地元の著名アーティストらによる支援ライブ配信など懸命な手立てで難局を乗り切り、「2023年にはコロナ前の6割、24年には8割ほどに来館者数が戻ってきました。ただ、少子化や物価高の影響などで沖縄への修学旅行を取りやめる学校も増えており、団体客の減少など今後も厳しい運営が予想されます」と説明する。

そうした中、普天間館長には気掛かりなことがあった。資料館の外壁の状態だ。沖縄特有の気候でカビが繁殖し、黒ずんだ外壁。コロナ禍が収束し、戻ってきた来館者をきれいな建物で迎えたいが、外壁の塗装にまで予算を回す余裕はない。そんな時だった。塗魂ペインターズとの出会いが訪れたのは。

ボランティアに息づく"ゆいまーる"

昨年の秋ごろ、塗魂ペインターズの埼玉ブロックでリーダーを務める澤田直樹さん(サイワ塗装工業)に1通のメールが寄せられた。『そちらで塗装のボランティア活動をしていると聞きましたが、当館の外壁を塗装してもらえないでしょうか』。ひめゆり平和祈念資料館からのメールだった。

「実は、埼玉ブロックのメンバーがひめゆり資料館を訪れたときに傷んだ壁の様子が気になり、塗魂ペインターズの塗装ボランティアの話をしたそうです。その際、私のアドレスを連絡先に伝えていたのでメールが送られてきました」と澤田さん。

自身、家族で平和の尊さを共有するため毎年のように訪れ、昨年他界した最愛の妻との思い出の地でもある、ひめゆり平和祈念資料館。「何かに導かれたように舞い込んできた話」と感じた澤田さんは、即座に塗魂ペインターズの幹部会に報告。佐々木拓朗会長(ユウマペイント)は、「戦後80年の節目の年に託された、私たちにしかできない奇跡のようなお話。ぜひやりましょう」と即決、同館の外壁のボランティア塗装が決まった。

年が明けた今年1月に澤田さんたちは現場調査を兼ねて資料館を訪れ、普天間館長たちと打ち合わせ。「最初は、本当にそんな稀有な団体があるのかと半信半疑でしたが、ホームページでその活動内容とこれまでの実績を拝見し、本物だと確信。当初は、中庭を囲む壁だけ依頼する予定でしたが、建物の正面の壁も塗っていただけることになり、本当にありがたかった」と普天間館長。コロナ禍の難局を切り抜け、「きれいな建物でお客様をお迎えしたい」という願いが、思わぬかたちで叶った。

そして4月、澤田さんが今回の活動の実行委員長となり、ボランティア塗装が実施された。工期は4月9日から12日の4日間。地元の塗装会社・沖塗工業が高圧洗浄機2台と脚立足場を、同じく塗料販売店の共和ペイントが高圧洗浄機2台を貸し出してくれ、機材の問題をクリア。塗料は日本ペイントが「グランセラシリーズ」と「パーフェクトシリーズ」で全面支援。用具や副資材は、好川産業と塗魂ペインターズのメンバーでもある三興塗料(東京)が提供して体制が整った。

工程の中で最も手こずったのは、下地の洗浄だ。「高温多湿な地域だけに、とにかくカビがすごかった。しかも、本土なら高圧洗浄で落ちるようなカビも、沖縄のものは頑固で強力。結局、マジックロンやデッキブラシを使って人力で擦り落としました」(澤田さん)と手を焼いた。

塗装した箇所は、中庭を取り囲む壁と建物正面の壁やフェンス、敷地入り口の献花売場のブースも含め、合わせて600㎡を超える施工面積だ。

下地洗浄の思わぬ事態に手こずったものの、下塗り、上塗りと予定の工期で完工できたのは、「多くの人に参加していただいたから」(同)。今回のボランティアでは、4日間で延べ130人もの人たちが塗装作業に加わった。

全国各地から駆け付けた塗魂ペインターズのメンバーはもちろん、地元沖縄の塗装職人や、澤田さんが所属する日塗装埼玉県支部青年部も応援。塗魂ペインターズが能登のボランティア活動で知り合った地元沖縄の災害NGO「結」の人たちも作業で参加し、「初日の様子が映っていたニュースを見て」と、地元の一般の人たちが現場に足を運ぶ場面も多く見られた。

財政的な理由でメンテナンスが行き届かず黒ずんでいた壁は、このボランティア塗装によってきれいに復活。清潔感のある濃淡2色のグレーで塗り上げられ、来館者が好感する装いに生まれ変わった。

そして、最終日の午後、ひめゆり平和祈念資料館から感謝状贈呈のセレモニーが行われた。最後にあいさつに立った塗魂ペインターズの佐々木拓朗会長は、「戦後80年の節目の年に、平和への思いを強くするこのような貴重な施設の塗装に携われたことに、こちらの方こそ感謝を申し上げなければなりません。世界ではいまだ紛争が続き、ガレキになった光景をニュースなどでよく見かけますが、だからこそ街や建物に彩を与える塗装という仕事が意味を持つとも言えます。これからもどんどん街や建物をきれいに彩り、社会に貢献していきたい」と話し、今回のボランティア活動を締めくくった。

NPO法人塗魂ペインターズは、「塗装でできる社会貢献」を理念に、2010年9月に始動。町場の塗装店など当初16社でスタートした活動に多くの同業者が賛同、全国に300社の会員数を数える団体に成長した。学校や福祉施設、公共施設などの塗装ボランティアの実績は、国内外で200カ所以上に及んでいる。



きれいな装いに蘇った「ひめゆり平和祈念資料館」
きれいな装いに蘇った「ひめゆり平和祈念資料館」
現在の「ひめゆりの塔」
現在の「ひめゆりの塔」
「根っからの塗装職人ですから」と澤田実行委員長
「根っからの塗装職人ですから」と澤田実行委員長
沖縄のカビは強力だ
沖縄のカビは強力だ
「ひめゆり平和祈念資料館」ボランティア塗装
「ひめゆり平和祈念資料館」ボランティア塗装
メンバーの家族も作業に参加
メンバーの家族も作業に参加
感謝状の贈呈式で。佐々木拓朗会長(左)と普天間朝佳館長(右)
感謝状の贈呈式で。佐々木拓朗会長(左)と普天間朝佳館長(右)
塗魂ペインターズ
塗魂ペインターズ

HOME建築物 / インフラ「ひめゆり平和祈念資料館」をボランティア塗装 塗装で体現"ゆいまーる"の精神

ページの先頭へもどる