第1章 人材が会社を作る

事業を継いでからの1年半は、継承前から決められた定時で仕事を終え、余裕がある中で仕事をしていました。すぐには学生気分が抜けなかったのでしょう...。恥ずかしながら、それでも会社が回っていると思っていました。
ただ大学時代に経営分析に触れていたこともあり、ある時ふと「会社の財務は大丈夫なのか」と考え、確認し始めたところ、借金や未払い税金が驚きの額に。当時、工場は2人体制で年商が3,500万円程度。全く先が見えない状況に陥ることになりました。


それ以降、月曜から土曜は9:00~26:00、日曜だけは夕方まで仕事をし、日曜の夜にほんの少しだけ休みを取るという生活を5年ほど続けました。
誰だって、長時間働くことが良い事だとは思いませんよね。効率的に実りのある働き方のほうが良い。ただ「自分がすべてを背負う」という責任感に加え、財務面のプレッシャーも手伝って、当時はとにかく必死に塗装作業に打ち込みました。週の労働時間は優に100時間を超えていました。しかし、その必死さが熱心な接客対応につながり、サービス向上に寄与したため、工場にとっては好循環を生み出しました。「必死さ」や「一生懸命さ」がお客様に自然と伝わったのかも知れません。


この時期はインターネットによる集客がスタートした時期でもあります(後の章で詳しくふれます)。下請けが80%の状況から徐々に直接のお客様を増やすため、具体的な取り組みを始めたのがこの頃です。一般のお客様と接することが多くなるにつれ、鈑金塗装というサービスに対して、お客様がどこまで満足し、価値を感じていただけるかを必死に追求するようになっていました。そんな時はすごく純粋なものです。会社の利益よりもとにかく「お客様の喜ぶ姿が見たい」という一心で取り組んでいました。今振り返ると、私の社会人としての基礎、サービス業としての視点、業界に対する考え方が培われた時期でもあります。


ただし無理はそうは続きません。完全に現場主義だった当時の私は、マネジメントは二の次で、利益も上がらなければ、当然自分の収入も上がりません。肉体的にも精神的にも限界が近づいていました。お客様のために良い仕事をしている自信はありましたが、「自分や家族のためになっているかどうか」が常に疑問な状況。やがて私生活にも支障を来たすようになり、妻に「このままだと死んじゃうから考えて」と懇願されたことをきっかけに、少しは人に任せられる環境にしようと4人目の社員を雇うことになりました。


その社員は、私が会社を継いでから初めて雇った見習いです。非常に努力家で、自主的な残業も含めてしっかりと作業に打ち込んでくれ、将来は「私の右腕に」と考えていました。
ところが2007年の夏。ある朝、出勤へと外に出るとドアの前に封筒が置かれている。手に取ると社長宛。何だろうと、封を開けると見習いの彼の退職願いでした。ようやく会社としての体制が出来つつあると手応えを感じていた矢先でしたので、私の緊張の糸はその瞬間にプツンと切れました。もはや何のために仕事をしているのかさえ分からなくなっていました。その2週間後に私は伊倉鈑金を廃業し、鈑金塗装という仕事を辞める決意をしました。


家族に相談し、年内に会社を整理する方向で動き始めます。廃業にあたりその時点で一番の課題は現社員2人の行先。そこで業界の仲間や先輩方に相談を始めることにしました。その時「捨てる神あれば拾う神あり」、2度目の大きな転機が訪れたのです。
当時、トヨタのディーラー工場で現場責任者を勤めていた52歳のベテラン職人と伊倉鈑金の現社員の今後について相談を重ねていました。ある日「僕が伊倉鈑金で雇ってもらおうかな」とポツリ。彼の高額な年収を知っていた私は「とんでもない」と初めは笑っていたのですが、更に彼と話を続けていくうちに彼の希望と当社の状況が合致し、最終的に彼を工場長として招き入れることになりました。
彼が当社に来てくれた大きな要因は、彼の自宅が工場から近く、私が夜中まで工場で働いている姿を見てくれていたことでした。「努力は無駄ではない」。週100時間労働の努力はお客様だけでなく、将来の工場長にも伝わっていたのです。工場を転々としてきた彼は「伊倉鈑金で自分の鈑金塗装人生を結果にして残したい」と、現場の作業改善と作業環境の整備を一手に引き受けてくれたのです。

社長1人では会社は成長しない

彼に工場長とし工場現場を任せてからはみるみる状況が改善していきました。それまでは自分1人でもがき、苦しみ、現場も経営も1人でどうにかしようとしている自分がいました。結果、社員にも家族にもそして自分自身にも負荷をかけ、将来が見えない工場となってしまっていたのです。
その後、鈑金職人を更に増員し、今後それぞれの役割を担っていく見習い3人を含め、現場8人体制となりました。工場も整備工場の一画を新たに借りて、作業スペースも広げました。
工場長という大きな右腕を得て、組織が拡大し、チームで経営ができるようになって、事業が回りはじめた結果、家業から企業へ転換を果たすことができたのです。
次の章からは家業から企業への転換を果たしていく過程をより具体的な根拠や取り組みに分けて、様々な角度からお話を進めていきます。

プロフィール:

伊倉大介氏(いくら・だいすけ)。1976年生まれ。東京都目黒区出身。
1997年伊倉鈑金塗装工業代表取締役に就任。2003年コーティング事業開始。2007年オークション代行業務開始。2008年廃車受付業務、レンタカー業務開始。2011年BP経営支援会社「アドガレージ」設立、代表取締役に就任。
2012年1月現在、社員10名、修理工場8人体制。